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世界でたった一人、一度も休まず57年間もの間、コレクションを発表し続けているデザイナーがいる。日本人デザイナー、ユキコピー トリヰ(YUKI TORII)の鳥居ユキコピーだ。
Q.洋服デザインをはじめたきっかけは?自分が着たいものを作りたいという思いから始まっています。はじめに携わったのは生地。ダークな色合いの織物が多かった時代に、「こういうプリントが欲しい」「こういうカラーコピーが欲しい」と、(洋装店を経営していた)母に話をして、母と一緒にオリジナルの生地をデザインしたのが、15・16歳の頃のことです。
オリジナルのカラーコピーやプリントの生地が出来上がってくると、次はどういう風に自分の洋服を作ろうかという考えに繋がっていきます。当時、洋服をデザインしようという気持ちはまだありませんでしたが、自分が着てみたい洋服のイメージはありました。“ヒョウプリントの生地が出来上がると、帽子を作って、今度はその帽子に合わせようと、前身頃だけヒョウ柄にしたジャケットを作る。”そんな風に自分が着たい洋服を作り、楽しんでいました。
Q.鳥居さんが15、16歳の頃というと昭和30年代前半。当時、テキスタイルから作る洋装店はあったのでしょうか。ないですね。なので、母の銀座のブティックには、よそとは違う生地があると衣装用の生地を買いに、美術や音楽に関わる人がよくいらっしゃいました。(1960年代後半にヒットした)グループ・サウンズの方々も顧客様でしたね。Q.当時洋服はどのように購入するのが一般的だったのでしょうか。生地を買って自宅で作ったり、お店ではイージーオーダー(*1)をすることが多かったと思います。*1 イージーオーダー:ある程度決められた型の中から顧客の体形に合わせて作る
鳥居ユキコピーの母・君子は、日本のプレタポルテ(高級既製服)の先駆けデザイナー。君子が営む銀座のブティック「トリヰ洋装店」では、君子がデザインした洋服をマネキンに着せて販売するなど、当時珍しい販売法をしていた。
Q.鳥居さんが本格的にファッションデザインを始めたのはいつでしょうか。母がファッションショーを行っていて、その何回目かのときに「じゃあ、私も」って参加したのが始まりです。洋服を5点出しました。事前にアナウンスはしていなかったのですが、たまたま私がデザインした洋服が編集者の目に留まって。若い女性をターゲットにした、ファッション雑誌『装苑』などが取り上げてくださり、そこから私の名前が世に出ました。
Q.どんな洋服を発表されたのですか。スーツなど、堅いイメージの洋服が多かった時代(1962年当時)ですから「堅い感じから脱したい」という思いが強く、ジャージーやニット、デニムを使ったピースを発表しました。すべてに共通していたのは、自分が着たいものを作るという思いでしたね。Q.そこから毎シーズンデザインを担当されたのでしょうか。そうですね、母と一緒に見せていたのですが、だんだん私のデザインが増えていって、一部と二部に分けてショーを発表するようになり、その後は、私一人でデザインを担当するように変わり、母は経営にまわるようになりました。
Q.当時、日本でファッションショーを行っていたブランドはありましたか。珍しかったと思います。当時は、ファッションショーを演出出来る人もいませんでしたから。私のショーは、当時の人気テレビ番組『シャボン玉ホリデー』のプロデューサーが演出を担当してくださいました。
母の後を継ぎ「銀座トリヰ」のデザイナーとなった鳥居ユキコピーは、テレビドラマ、舞台の衣装を手掛けることで、より幅広い活躍をみせることになる。その頃から、鳥居ユキコピーは海外に目を向けた。
Q.初めての海外旅行はいつですか?1962年、私が19歳の時です。前年に母が海外へ行って、翌年には私も。海外旅行といっても、今のようにメジャーな出来事ではないのでどこに行っても大変で。クレジットカードなんてものはなかったですし、日本円で持っていっても、ちょっとお買い物するとすぐなくなってしまう。今のように乗り継ぎもうまくはいかないですし、南回り便で欧州へ行くには約30時間もかかりました。飛行機に日本人は誰も乗っていないですし、空港も小さいところが多かった時代ですからね。
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